春日井ボンのボンかすLIFE

春日井ボンのボンかすALONE

日本人バヤニストの生活と日々

ともだち

日本に帰国した僕はとりあえず通訳と翻訳のバイトをしながら一人でひっそりと楽器の練習に打ち込んだ。そこには勝算などなく、未来には何もないように思われた。今思うとおかしいが当時の僕は髪が長かった。キムタクのロン毛ではなく、その前の江口洋介がロン毛だった時代である。たぶん「俺はミュージシャンだ!」とでも言いたかったのだろう。実際は演奏する場もなく、ただの自己満足とサラリーマンになったら人生おしまいだという幻想の象徴がバヤンであったのだと思う。

 

やがて通訳のバイトをしていた会社からも業務縮小で解雇を言い渡され、行き場に困ったがほかにできることもなかった。その頃、どこかのジャズフェスティバルを深夜にテレビで観た。カッコつけではないナチュラルなミュージシャンの風体に何かを感じて僕は髪を切り、お土産物屋でバイトを始めた。そして楽器屋のメンバー募集のちらしを見て数人の男たちと方向性バラバラのバンド…とも言えない集団を組んだ。誰かの曲を弾く時はドラムを叩き、少しずつ自作の歌を作ってはピアノなどを合わせてもらって歌った。24歳くらいの遅いライブデビューだった。初めてのライブはクリスマス。30バンドぐらいが次々に登場する対バン形式で、5曲ほど演奏した。ロシアを除けばまともに人前で演奏した初めての機会だった。ただただ??という反応だった。知り合いのバンドの演奏を観に来たであろう女の子がぽかんと口を開けて僕を見ていたのを思い出す。

 

アコーディオンの音色は倍音だ。リードを蛇腹のふいごで吸入する空気で鳴らす。同時にいくつものリードが共鳴するから、単音を鳴らしても厳密に言うと同時にいくつもの音が鳴っている。奏法には苦労した。ギターやピアノみたいなコードでのカッティングが不得手で、弾き語りには向いていないのではないかと思った。音を擬音で表すとなんだろう、「みゃぁ~~」という感じかな?コードでカッティングすると「みゃ!みゃみゃ!」と何匹もの猫が騒いでいるようでかなりうるさく感じる人もいたようだ。僕自身は嫌いではなかったが、当初あまり共感を得られなかった。僕は実はアコーディオンにこだわりがあまりなかった。アカデミックなアコーディオンの練習はしていないしすべて自己流でやっていたから、楽器を使いこなしている感じはなく、なかなか上手くならなかった。運指を目視できないから一度ズレてしまうと終わりだ。音感だけで演奏していたような感じだった。

 

それでも楽しかった。楽しいというより音を出すことと、両手両指を動かしていること、それに合わせて歌を歌うことが気持ちよかった。作詞は好きだったと思う。思ったよりも人は「歌詞を聴こうとしている」と知り、どんなテーマ(思い)をどう歌うのか、が曲作りのメインテーマになった時、バヤンはようやく僕の友達になった。バヤンでなくても弾き語りの伴奏になればそれでいい。だが僕はバヤンしか弾けなかったし、唯一弾ける楽器がバヤンだったから、バヤンを弾いた。きっと友達もそれくらいの距離のほうが長く付き合えるのかも知れない。