春日井ボンのボンかすLIFE

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日本人バヤニストの生活と日々

「怖い」に打ち勝つ

最近、「怖い」という感情を抱いていることに気付いてから、そのことについて深く考えてきた。ここでは怖れに打ち勝つ方法論を書いてみようと思います。深呼吸するとかその類の話ではなく、どう考えていけば怖れというストレスから自由になれるかです。

 

断っておきますが、あくまで僕が楽になるための文章ですので、どなたかの参考にはならないと思います。

 

 

「恐い」と「怖い」

こわいという言葉には常用外の「恐い」と、「怖い」の2種類の感情が含まれているように思います。日本語としての正しい解釈とか語源とかには触れないので間違っているかも知れませんが、僕の中では「恐い」と「怖い」はまったく違います。

 

  • 恐い=対象が外部にある恐れ
  • 怖い=対象が内的な怖れ

 

「恐い」は目の前の、もしくは自分の外側にある対象に対しての素直な感情です。そして時間的には近い将来や未来のような、距離を感じます。一方、「怖い」はもっと直接的に自分だけにのしかかっているように感じる圧力に対する反応ではないでしょうか。

 

僕の場合、「恐い」のを想像してみると…、幽霊、山にいる熊、無謀なドライバー、地震、温暖化、国内経済の悪化、年金が将来的に支払いされない可能性、成人病の蔓延とかそういうもの。恐いのはきっと直面した時なので漠然とした感覚があります。

 

一方、「怖い」はもっと自分の現状に根ざしたものだろう。正直に書きますが、無職であること、仕事が見つからず無職が続く不安、税金の支払いが大変なこと、近々マンションの理事にされる憂鬱、実家からの圧力、ひとかどの社会人でない虚しさ、とかそういう身も蓋もない個人的な不安や恐怖です。いま現在進行形でこの怖れと闘っています。そこでは「40代の人材流動性が低いのは問題だ」とか「減税して欲しいが実現しない」とか「マンションの理事なんかリタイヤして時間のある高齢者がすればよい」などという状況に対しての意見とは一切の関係がなく、怖い。つまり怒りとは無関係だ。

 

僕がこわいのはこの「怖い」の方です。

 

ふと、「怖い」には「なんでそんなに怖いのか、怖がるべきではないのに」という卑屈さをセットで感じていることに気付きました。つまりこれは思い込み。だから考えようによっては打ち勝てるのではないか?思い込みだと気付けたことが鍵のように思えます。

 

対処だけでは自由になれない

 

怖いことには対処ができるはず。例えば、無職が不安なら就職すればいい。収入を増やすには転職すればいい、という感じ。転職するにはハローワークや求人サイトに登録して求人に応募し、せっせと履歴書を送りつければいい。もちろん分かっているし、やっている。そう、まだ現時点では良い結果が出ないだけ。

 

対処を実行しているプロセスでも多少の軽減はあるけど、怖い感情は消えてはくれない。とりわけお金に関しては、たとえ満足に生活できる以上の収入が定期的に入る仕事をしていたとしても「一生こんなことしないといけないのか」というような新しい怖れにとり付かれてしまうこともあるでしょう。

 

想定できる現実的な対処を実行し続けることが怖いに打ち勝つ最大の手段の一つであることは疑いもありませんが、対処だけでは精神的な怖れを消滅させることにはならないのです。少なくとも僕には、もっと根深いところに怖がる原因があります。

 

怖れを直視し、自覚する

 

まずは怖れ…「怖い」という感情を直視したい。それが第一段階です。あー怖い!怖い怖い怖い。怖や怖や。僕は何度も一人の部屋でそう口に出してみました。怖い感情をアウトプットしよう。出して出して多少でも減らしてみよう。発言したら想いは気化するかも知れないと思って。怖れを直視できているかは不明ですが、十分に自覚できました。

 

相手の立場に立つのをやめる

 

次に、怖い対象が人間関係に根ざすものやストレートに個人そのものである場合は、その人も大変なのかも知れない、仕事で仕方ないのかも知れない、そういう性格だからしょうがないのかも知れない…などと相手の立場に立って想像することを、やめてみました。思えば、相手の立場に立って考えても「僕ならそうはしない」とか「どうして(僕に)やさしくないんだ」「もっとこうしてくれれば協力するのに、感じ悪い」とか結局、自分の物差しで評価することしか出来ず、そんな自分の頑固さすらも新たなストレスになってしまったからです。

 

今回の文章、別に仕事や生活における人間関係のレシピじゃないです。単に僕がストレスから解放される方法論を書いています。関連して、最近気付いたことを書きます。

 

ある日、外出しようと部屋を出るとマンションのエレベータ前に人がいました。同階の人だろうが顔なじみでもない。よくやるように「こんにちわ」と声を掛けたところ、僕を一瞥して無言でスマホに視線を戻されました。エレベータを待ち、乗って、1階でその人が先に出るのを待つまで、僕は恥ずかしかった。(感じ悪!なんで挨拶しないの。こっちだってしたくてしてるんじゃないのに)などと思いました。

 

でも次の瞬間、これは横断歩道の信号待ちと同じなのだと悟った。出勤などの急ぐ理由もない今、僕は歩いている時には車が来る気配がなくても信号を守る、ただ気分で。当然だが赤信号でも歩道を渡る人はいる。そこでなんで行くんだ!とは思わない。僕が歩行者信号を守りたいから守る、ただそれだけのこと。それとまったく同じで、挨拶しても返してこない人、マンションでも職場でも多々あるけど、そこで感情を害さなくてもいいんじゃん。

 

僕は他人をコントロールできないし、したくもない。だからその人の自由でいい。他人は僕の望むような言動や振る舞いをする為の役者じゃない。自分の思い通りにならなくて普通。そう考えることにした。他人の立場に立ってまでストレスを増やすなら、立たなくていい。もう十分だ。他人の心の中は計り知れない。これは自分の勝手な言葉で他人を傷つけても構わないというサイコパスな意味ではありません。ただ、僕と僕から見た世界とは、並んで立つ二本の木に過ぎないというような気持ちをもっと持とうと思ったのです。まずはそこから。

 

気分が少しだけ軽くなりました。ですがこの程度ではストレスは消えません。

 

※続くかも知れません