バヤンの練習をしていて、そのまま編曲した。自作曲一軍の中で最も古い、「例の曲」だ。少し違う音を入れることで曲が良くなった。
今は分かる。もしも音楽が人であり、曲に性格があったとして、作劇するとしたら、その人がいかにも言いそうな台詞を言わせることだ。そのキャラでそんなこと言わないでしょということを台詞にしたら違和感しか生まないだろう。例えば、山の手のお嬢様がいきなり関西弁でツッコミ入れたりは、普通しない(山の手のお嬢様が関西弁でツッコむ脚本は否定しないが、その必然性がなければ作劇としては破綻している)。音楽も同じで、その曲のキャラ(曲想)にぴったりの台詞(音)を使うということだろう。とても当たり前のことを言っているが、これが本当に実感できたのは、よりぴったりの音を見つけることができるようになってからだ。脚本の推敲をするように、編曲をした。今日は、その先につながる時の音を変えて、謂わば「曲のキャラが立った」のである。
いま思うとこの曲はここ二年ぐらいの手癖からは離れた作り方をしている。今作るとなるとこういう音にならなかっただろうなと。それにあまり自分らしくない曲だ。だからこそ不思議なことに、間違いなく自分の曲だという気がする。この曲が生み出せてよかった。それだけで生きててよかった。…と思えるならそれでいいのだ。