春日井ボンのボンかすLIFE

春日井ボンのボンかすALONE

日本人バヤニストの生活と日々

お気に入りと暮らす(二軍撤廃)

僕は長いこと生活用品、とりわけ衣服について厳密なる序列をもって管理してきた。「一軍」の下に「二軍」「三軍」、さらには通常呼び名のない「四軍」が存在する。このヒエラルキーは絶対で、三軍ともなると僕に畳んでさえもらえない。

 

■例:シャツの場合■

一軍…大事な用件やお出かけ用、知人との飲み会など人前に出る時

二軍…近所への買い物や車外に出ない運転時

三軍…寝間着や家着として愛用

四軍…引越しの手伝いや大掃除などの大一番に向け、万全のコンディションで待機

 

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以前、一軍のシャツの中に、特に高価ではないがサイズ感が絶妙で大好きな真っ白のシャツがあった。だけどこのシャツに袖を通したのはわずか1回だけだった。「汚れたら嫌だな今日は焼肉だし」とか「突然白いシャツが必要になった時に絶対にこれを着たいから置いとこう」などの無意味なる理由によってハンガーにかけたまま放置していたら、陽を浴びすぎて肩にハンガーの跡が茶色く付いてしまった。洗っても落ちなくてもう着れない。しかも着れないまま名残惜しくてずっと箪笥の肥やしになっていた。

 

衣服以外には、思いつくところで食器やカトラリー、あとは調味料などの食料品にも二軍制度が敷かれている。どうしてこういうことになったのか。

 

僕が生まれ育った家は中流家庭で、死ぬほど貧乏という訳ではないのにとにかくせこせこするのが良いこととされた。一例がカラーモールと言うのか、あの、針金が中に入った白や黒や赤の堅い紐状のもの、あれを食べかけの袋菓子でもなんでも縛って閉じる。そういう家だった。一度、実家の母親から小包が届いた時にたまたまもらった銘茶だかを一口飲んでうまかったから息子に送ろうとしたのか、カラーモールで閉じたものが入っていて、それ見て当時付き合ってた人が「…おんなじだね」と切なそうに感嘆したことがあった。今ではその切なさが分かる。物に二軍三軍を置き、食器でもなんでも飾ってるだけで使わずにガラス棚の中でゆっくりと長い時間をかけて埃が石化したかのようにこびりついていた実家。18歳から一人暮らしして、否定したかったはずの実家の風習を外地で一人まじめに守り抜いてきたのだ。固定化されたローカルルールだから風習と言うのだろう。

 

その結果が1回しか着ない大のお気に入りのシャツになる。二軍を置くとは損をしないことを求めて結局は得というか楽しみから遠く離れるのだと薄々感じながら過ごしてきた。若い時分は「太く短い人生こそ意味がある」みたいなことを吹聴するくせに、その頃から超絶せこかったのだ。恥ずかしい。そうしてたまにしか会わない人の前でだけいい服を着る。くだらない。自分が見栄っ張りをきれいに体現していて悲しくなる。今までいつも一軍の服を眺めながら、本当に着たい服を着ていなかった。二軍だらけの生活を続けていても生きていけないわけじゃない、でも自ら楽しくなる気持ちから離れよう離れようとするなんて、なんとばかばかしいことだろう。

 

だからこんな二軍制度はもうやめよう。

 

今日、一軍のシャツと一軍のTシャツと一軍の靴でちょっとその辺に出かけた。農場のソフトクリームを食べに行き靴には泥がついたけど、今日一日ずっと気持ちよかった。一軍を温存するための二軍コーデはワクワクしないのだ。服を着ただけで気持ちよくなれるのはそれが一軍だからというより、お気に入りの服(同時に似合う服であることも多い)だからなんじゃないかな。何より自分の目に入る自分の姿を見ても楽しかった(どんだけ我慢してたんじゃ)。

 

すべて一軍、つまりお気に入りだらけとなって初めて二軍制度を完全撤廃したと言えるだろう。欲望は限りないが、必要な数は案外少ない。それが質を高めるとかいうと、ベストセラーの「フランス人は10着しか服を持たない」に繋がる話になるんでしょうね(読んでませんが)。二軍撤廃という表現にしかならないところがまだまだ僕の精神の貧しいところなのですが、目指すところは同じなのである。

 

 

 

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いま、僕の「一軍率」はたぶん3割弱です。6割切り捨てたらかなりすっきりするだろうな。