年齢について考えることがある。
僕は誰かの意見をちゃんと聞いてこなかった。頭を押さえつけられるような気がして、誰の意見も聞かなかった。まるで一人で生きてきたようなものだ。だから人の意見を受け入れた時というのはよく覚えてる。自分にとって珍しいことだからだ。
年を取ったんだと思わされることは多い。ほんとうに曲がり角なんだなぁと思ったりする。いくつも事例はあるんだけど、ひとつはぶっちゃけ若い男女に「男性」だと思われない(女性には異性として、男性には同性として接してもらえない)ことに気づいたこと。これはもうよく分かる。たぶん40歳で変わったと思う。分かる人には分かるだろうな。感覚としか言いようがない。自分自身がオスだと思ってるうちはそれは恐怖に近い感覚だったが、オス意識が薄れてきたらもうなんとも思わなくなる笑。かまわんよ、てな感じだ。仕事上とかだと変な気を使わないでいいから断然ラクだしな。プライドのない状態、とでもいうのだろうか。悪いことばかりではない。性の意識から自由になったからかプライドがなくなったからか分からないけど、人に謝るのが上手になった。コミュニケーション力が上がったと言えなくもない。オトコを見せながら部下をコントロールする上司は、まだ自分がオスだと思っているのだ。良くも悪くも。
僕はいま父が亡くなった年齢になった。あと少しすると彼の年齢をひとつ越える。そのことに幾らかの感慨がある。父親の気持ちを知ることはできなかった。自分はまるで幼形成熟したウーパールーパー(アホロートル)のように、成体でありながら幼さが残ったような奇妙さを感じている。なんでこれで生きてるんだ?って思う。
なんでいま音楽をやりたいんだろうね。なにかを作り出せる気はする。誰が知らなくても自分の20年前の曲を演奏したりほんとうに好きな曲をカバーしたり、久しぶりに今の気分を音で表現したりは楽しいんじゃないかな。何かが変わるかもとは正直思ってない。それほどまでに僕の憂鬱な雲は重い。小さな不安が雲になったのなら、それが長い間に重い雲になってしまった。この曇天が晴れなくてもいい。でも一筋の光が見えそうな気がするんだ。そして、こんな暗い天気でも光を見たいという衝動を諦めない気持ちだけは持っている。
そのことに気づいてうれしくなる。そう思えるうちは生きていると言えるだろう。まばゆい光じゃなくとも光を見たい。