バイトをしていた土産物屋では本当に大変お世話になった。お店が入っていたのが社長の持ちビルで、4階の休憩室だけでなく5階の倉庫でも練習させてもらった。時には屋上で歌っていた。街中だから周りはファッションビルで、おしゃれな若い店員さんたちがタバコを吸いながら例の口あんぐりで僕を見ていた。よく苦情がなかったものだ。週5日はバイトして、休み前には楽器を持って帰り、休み明けには楽器を持っていく。連勤のあいだは基本的に店の休憩室に楽器を置かせてもらっていた。なにせ楽器が重いのだ。
その頃の楽器は、僕が帰国する直前にロシアで購入した第二号バヤンで、大きさと重さだけはプロ級だった。しかし重い。12kgはあった。今で言うソフトケースのようなものも一緒についてきたがそれがぬめぬめした革製。ある意味高級と言えなくもない。今でこそ違うだろうが、当時(1992年)のロシアの地方都市では、プラスチックのような廉価な生活用品は出回り始めた当初で、食品も含めて物とは必要な数だけが必要な場所にしかなく、そしてそれはほとんどが本物だった。生活は不便だがある意味で理に適ったもので、慣れると不便とも思わなかった。ロシアの大人はそう言って誇っていたが、僕と同じ世代のロシア人学生たちは不満を口にしていた。こうした世代差について書くと長くなる。そうだ、バヤンの話だった。
土産物屋ではバイトの皆さんたちも僕の活動を知っていたし、いろいろと融通をきかせてくれたし、何より応援してくれる人がいるという環境は初めてだった。その頃から積極的にライブに出演し、テレビやラジオにも出る機会を得た。金銭面では不安が絶えなかったが、それでも充実した期間だった。今と一番大きな違いは、すぐ近くの人たちに愛されている実感があったことだ。
何にでも終わりはある。僕がバイト中にこの土産物屋は60年以上の歴史をもって閉店することになった。その場所はいまやファッションビルになっている。風に吹かれて歌った屋上も、孤独に練習していた暗い倉庫も別の姿になっているだろう。20年経った今、そこはどんな風になっているのかな?なんだか久しぶりに見に行きたい気になってきた。